校風
広島の新しい友人との不思議な縁で、中学・高校時代の親しい後輩と四半世紀ぶりに再会することが出来た。
私たちの学校は、その当時は、まだ、新設校でそこそこの学校であったが、今ではすっかり進学校の上位校となっているらしい。2年ほど前に20年ぶりに再訪問したら、すっかり、校舎も新しくなってしまい、自分の記憶の中に残っているものが何一つないような感じだった。25年前と今では、まったく別の学校なのかもしれない。
後輩と二人で、自分たちの学校を振り返って、一致した意見は、とにかく放置されていたと言うこと。授業がいいとか、教師がいいとか、カリキュラムがいいとかいうことは全くない。その代わり、宿題をたくさん出したり、時間割がきつきつだったりすることもなかったから、受験勉強したい人は、好きなだけ勝手にしてよかった。入学してくる生徒のレベルはそこそこだから、それなりの大学進学実績を残せてきたのだろう。
後輩も、医学部に進んだが、数年前に、大学をやめ、小児科医として開業している。人前で苦労話をするようなやつではないけど、きっと、いろいろな紆余曲折があったのだと思う。言葉の端々に、決断を迫られた時、どんな風に考えてきたのか、様子をうかがい知ることが出来た。それを聞いていて思ったのは、本当に、自分に似ているということ。
お金はあって困るものじゃないけど、そこそこあれば、お金を稼ぐことに執着する必要はない。ガツガツしすぎない。どうせ人生なるようにしかならない。失敗したって取り返せないものなんてない。生活の中で少しだけでいいからやりがいを持つことで生き生きとしていたい。
実は、彼だけではない。久しぶりにあった中学・高校の友人からも同じ印象を受けたことがあるのだ。
多感な中学・高校を同じ場所で過ごすというのは、知らず知らずのうちに、同じような価値観を持つようになるのかもしれない。それそのものが、「校風」というものであって、知らず知らずのうちに私たちがすり込まれているものなのかもしれないと思った。